昨年末に、トルストイの『戦争と平和』を読んだ。実はトルストイを読み始めたのは最近のことだ。同じロシア人作家ではドストエフスキーやチェーホフ、ツルゲーネフを読みはじめたのが十代だったのに比べたら、トルストイとの出会いは遅かったと思う。正直に言えば、トルストイは読まなくてもいい、と勝手に思い込んでいたのである。
そう思ったきっかけは寺山修司だった。手元に本がないので、不確かな記憶だけを頼りに書くが、それは三島由紀夫との対談だったと思う。二人が話題にしていたのは、『家畜人ヤプー』でその過激な性描写を称賛していた。性の解放、性欲の肯定が声高に主張されていたと思う。そこで寺山はサドやヴァタイユなどを担ぎ、トルストイを槍玉にあげる。婚前交渉の禁止を封建的だと批判し、性交の目的を生殖のみに限定する思想を退行的だと攻撃する。セックスの快楽を積極的に奨励していた。エロティズム万歳!というわけだ。
その考えを鵜呑みにしたわけではないが、当時のわたしは、直に触れるより前に、トルストイは保守的だから読む必要なしと浅はかな判断を下したのだった。ここで「浅はか」なのは当時のわたしの判断のことであって、思想的に寺山が間違っていて、やはりトルストイは正しかった、とかいうものではない。考えてみれば、婚前交渉の禁止も生殖に限定した性交も、もとはキリストの教えであり、同じような戒律を持つ宗教はほかにも多くあるわけで、寺山がわざわざ名指しでトルストイを攻撃したのは、作家として態度、つまり権威や体制側に造反を示したい、という部分が大きかったと思われる。そしてわたしがいま言いたいのも、性に関することでもない。
トルストイをはじめて読んで驚いたのは、その思想のラディカルさだった。勝手に保守的と思い込んでいたから、落差にびっくりしたのだ。寺山の言うように、トルストイは婚前交渉と生殖目的以外の性交を否定する。それがキリストの教えだからだ。しかし、トルストイはそこにとどまらず、結婚そのものがキリストの教えに反していると言い、結婚の前後を問わず性交を禁じるべきだと言っている。純潔と禁欲こそが理想であり、その理想のために人類が滅亡することを善しとするのである。
以下は『クロイツェル・ソナタ』に書かれていることだ。
≪人類の滅亡ということは、人間にとって何もこと新しい思想ではない。宗教家にとっては、信仰のドグマであり、科学者にとっては、太陽の冷却という観察から推して、必ず到着しなければならぬ結論である≫
≪自称キリスト教会の教義は、キリストの教えに従わず、人生の状態に応じて、キリストの精神にもとる外面的定義と規律を制定した。・・(中略)・・キリストは単に結婚の制度を設けなかったのみならず、その外的教義のみの解釈に従えば、かえって結婚を否定してさえいる≫
≪たとえ結婚する人が、人類の存続を目的とする場合でも、結婚は神と隣人への奉仕を助けることにはならない。そのような人は、子供の生命を創り出すために結婚するよりも、むしろわれわれの周囲で物質の糧(精神の糧とはいうまい)の不足のために亡びている数百万の子供の命を維持し、救助した方が、遥かに手っ取り早いわけだ≫
「太陽の冷却」という推定50億年先のことを持ち出すあたり、やはり尋常ではない。しかし、さすがの文豪も自ら辿るに到った結論に驚きを隠せなかったようで、≪わたしは自分自身の結論に慄然とし、それを信じたくないと思ったくらいである。≫と述懐している。しかしだからといって、理想を引き下げることは決してせず、≪いったんキリストの理想を知った以上、それを知らないようなふりをして、外面的な規定をもってそれを代えることは出来ない。≫と鉄の意志をむき出しにする。
国家や教会に背いて一個人の思想として、ここまでの境地に達するということがまず素朴にすごいなと思った。「人類が滅亡してもかまわぬ」というのは、「世界が破滅するから信じなさい」などというのとは全然違う。この場合の「世界」とは卑しいほどに「あなた」と同義だ。
トルストイが人類の滅亡を理想(永遠に到達不能な極点)とするのは、人類の一人一人が自己犠牲を果たす、ということだ。それが、神への愛であり隣人への愛であり、そのとき世界は、破滅するのではなく完全となる。人類の滅亡は目的ではなく、結果にすぎない。
それで宮崎駿である。
たまたま偶然に聞いたこのラジオで宮崎はトルストイと同じことを言っている(庵野秀明によるまた聞きであるが)。すなわち、「人類は滅亡してもかまわぬ」と。
http://www.nicotwitter.com/watch/sm10871858
ナウシカの打ち上げの席で宮崎駿は言ったという。「人間なんて滅びたっていいんだよ、とにかくこの惑星に生き物がのこっていれば、人間なんていう種がいなくなっても全然いいんだ」
この発言とキリストの教えとを一緒くたにすることはできないが、トルストイと宮崎駿の二人が、人類の存続以上のものを世界に託しているのは間違いない。
ナウシカの七巻では、「腐海」の秘密が明かされる。人体に有害な瘴気を発する腐海は、実は地上の有毒物質を浄化する装置であったという秘密だ。かつて旧世界は地上を汚染し尽してしまった、そのためいったんすべてを焼き払い(「火の七日間」)、そのうえで人工的に腐海を作って地上の浄化プログラムを行っている(「墓所の主」)、という。
古今東西、似たような話は数多くあると思うが、一番有名なのは、「ノアの方舟」だろう。地上の人間の悪行を見かねた神が、大洪水ですべてを根こそぎ洗い流す。神は事前にノアに舟の建設を命じて、そこにあらゆる動物の番いを乗せて、洪水による絶滅を防いだ、という聖書の創世記にある話だ。
最近でも、ピクサーアニメーションの『WALL-E』が似た設定だった。やはり汚染され地球上に住めなくなった人類が宇宙ステーションに移住し、地球はロボットが浄化作業にあたる。しかし宇宙ステーションで待っている時間があまりに長く、かつまた宇宙ステーションの生活が快適で、地球のことは忘れてしまう(自分の二本の足で歩くことも忘れている)。
そのような、似たストーリーや設定が多くあるなかでも、『風の谷のナウシカ』はかなり複雑で特異だ。ナウシカたち風の谷の住人は、汚染された世界にもはや順応していて、かつて旧世界の人類が生きていた浄化された世界では生きていけない。ナウシカたち人類はかつての人類とは別種の人類になっているわけである。そのような事態をリアリティをもって想像することは容易ではない。しかし、汚染され人間が住むことができなくなった地球や大地を想像するのは容易い。言うまでもなく、核の脅威と放射能汚染のことだ。(しかしまた、人類の歴史をさかのぼれば、われわれ人類(ホモ=サピエンス)は類人猿を滅ぼしてきた(かもしれない)。それに、『新世紀エヴァンゲリオン』は人類対新人類、という構図で見られる側面もある)
福島第一原発の事故では、多くのペットや家畜が置き去りにされた。それはやむにやまれぬ状況で、飼い主や所有者にとっては痛恨の極みだったろう。人命優先なのは当然だが、この痛みには「人類は滅亡してもかまわぬ」という思想をもって報いなければいけない、とわたしは思う。
たとえば、佐渡市で原発事故があったとして、佐渡のトキ保護センターが強制避難区域になった場合を想定してみよう。センターの職員はそれこそ捨て身でトキの保護と避難に懸命になる、それでも多くのトキがそのストレスと移動先の環境に適合できず死ぬだろう。それで日本のトキが絶滅するリスクもあるのだ。
今、たとえば地球上が放射能でまみれ、人類が地球外に避難しなくてはならなくなった場合、その「現代の方舟」にどれだけの動植物が同乗されるだろうか。ちなみに、『WALL-E』では、記憶を頼りに言うのでたぶんだが、人類の避難先である宇宙ステーションには一匹の動物もいない。
トルストイが言うのであっても、「隣人愛」という言葉の範囲に、異教徒や有色人種は入るのか、という疑念は拭うことのできないものがある。が、それは別の問題かもしれない。ただ、方舟に定員があるならば、乗船拒否するのが、トルストイの思想だと思う。そこにはいささかのロマンティズムもヒロイズムもない。ひたすら厳しい、理想主義があるのだ。
『戦争と平和』で、わたしが一番感銘を受けた一文は以下のものだった。
≪「でも、ほんとうにもうすべてが終ってしまったのですか?」とピエールは言った。
公爵令嬢マリヤはびっくりして彼に目を見はった。どうしてこのような質問ができたのか、それすら彼女にはわからなかった。ピエールは書斎へはいっていった。健康が回復したらしく、すっかり面変りしてしまったが、まえにはなかった縦皺を眉のあいだに刻んだアンドレイ公爵が、文官服姿で、父とメシチェルスキイ公爵のまえに立って、精力的な身振りをまじえながら、激して論じたてていた。
スペランスキイが話題になっていた。その突然の追放と捏造の裏切りの報がモスクワに届いたばかりだった。
「一月まえに彼(スペランスキイ)に感嘆していた連中がみな、いまは口をそろえて彼を批判し、弾劾している」とアンドレイ公爵は言った。「彼の目的を理解する頭のなかった連中までがだ。寵を失った人間を裁き、他人の過失もすっかりなすりつけることは、いともたやすい。しかしぼくは断言するが、現帝の時代に何かよいことがなされたとすれば、それはすべて彼によってなされたのだ――彼一人によって・・・」彼はピエールを見て、話を中断した。その顔がぴくりとふるえて、すぐに悪意のこもった表情になった。「まあ、後世の人々が彼に公正な評価をあたえるでしょうな」と彼は言葉を結ぶと、すぐにピエールのほうに向き直った。
「やあ、どうかね? ますますふとる一方だな」と彼は快活に言った。しかし新しくあらわれた眉間の縦皺がいっそう深く刻まれた。「うん、元気だ」と彼はピエールの問いに答えて、にやりと笑った。この自嘲ぎみの薄笑いが、『元気だ、しかしおれの元気なんかだれにも必要がないのさ』と言っているのが、ピエールにははっきりとわかった。≫

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